くるり「ロックンロール」
増殖するシンパシーについて
新劇場版エヴァQの予告版とポスターを見ました。
私がTVでエヴァを見たのはちょうど中2の時でした。
田舎だったので放送は東京の2年遅れでした。
遅れていなかったら多分私には理解しがたい内容だったと思います。
のめりこんだ
中二病、セカイ系という言葉はまだ私達は持ちえなかった。
ただ10代の死にたい病は昔から存在していて、
そこに上手い具合にはまりこんだ作品だった。
そこに閉塞感があることを、
閉塞感を表現する方法を、
私達は彼らを通して客観視し、表現を得たのだった。
人型の使徒は人間に好奇心で近付く。
あれはBLではなかった。
少年と人を知らない使徒の、曖昧で不器用な接近だった。
ポスターを見る。
破の最後の使徒の台詞。
もう関係性は違っている。
あの出会いは、もうないだろう。
90年代
あの頃
ナローバンドだったネットワークは
(※書くべき言葉を喪失しました)
(後でまた書きます)
(集中力が切れた)
→続き書いた(2/3)
あの頃
孤独を共有する方法は、直接口に出すことしかできなかった。
でもそれは口に 音にすれば 孤独感は薄れた。
誰にも口を利けぬ
孤独さに溺れれば、
最終話で
パイプ椅子で
頭を抱えて
叫んでいた
14歳の少年と
僕等はあの頃、何ら変わりが無かったのだ
ネットの普及によって、
孤独は共有するものとなった
自室で街中で孤独だと打つ
離れた孤独が寂しいと返す
僕等はいくらでも、触れようと思えば触れられるようになった
さて。
当初書き始めたときはあのポスターがあまりにも衝撃的すぎて
そんな2人は違う!と全否定したかったのだけれど
実際に映画を見て今までの展開がひっくり返されてしまい
敵としてじゃなく友人としてのままカヲル君が
亡くなってしまったことにうわあああああああああと
まんまと思う壺にはまり
早くシンジ君幸せになってくれうわあと思っています
しかしヴンダーが完全にナディアのノーチラス号
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